法律系資格:2時間で憲法の入門を確認!!基本中の基本○項《人権編》 途中。。
※この記事は書きかけですが、毎日更新していきます。
行政書士試験。
公務員試験。
その他、公法系の法律資格等々・・・。
多くの法律系資格試験の必修科目として、憲法が挙がっていることが多く、資格試験によってはとても重要な科目です。
最近では、長い不況下、公務員という職種が安定していることから、公務員試験を受験される方が多い傾向にありますが、この試験では憲法のウエイトが高く結構ガッツリ勉強する必要があります。
また、このブログのメインテーマである行政書士試験においても、憲法のウエイトは民法・行政法に続くウエイトをのある科目です。
そんな、憲法ですが、その役割は『法律の親分』的な位置付けで、考え方が特殊で、その上登場する内容が抽象的で難解というとっつきにくい性質があります。
そのため、勉強を始めてすぐの頃は『わかりにくいな~』というシーンに何度も出くわす科目でもあります。
結果として、挫折してしまう人も多いはず。
この記事では、そういう悲しいことにならないように、まず憲法とはどんな法律なのか?ざっと概要を一気に確認してみようという趣旨で書いてみました。
目的は以前掲載した民法の基本の基本を解説する記事と同様です。
まずは、憲法人権から、1時間で憲法の基本中の基本を攻略していきましょう♪
INDEX
はじめに
さて早速ですが、本題である憲法の内容の話に入っていきたいのですが、その前にまず、このブログで前に掲載した『憲法の考え方の特徴』をざっとまとめた記事があります。
こちらの記事を読んでいただけると、憲法がどのような法律でどのような考え方で成り立っているのか?
そして、憲法で登場する法律論の論理の展開(論点の話の流れ)がどういう形で繰り広げられるのかざっくり理解できると思いますので、より憲法攻略が楽になると思います。
↓ ↓ ↓ ↓
《行政書士試験:抽象的で難しい『憲法』を攻略する5つの学習ポイント》
こちらの記事も少し長いので、ここで概要をざっとまとめてみますね。
まず、憲法という法律は国民の一人一人を縛る法律ではなく、国(国家)を縛る法律であるということ。
つまり、民法などと違って、憲法では、国の行為が憲法的にどうなのか?ということが問題になるということです。
次に、憲法というのは大きく、【人権】と【統治】という2つの分野に大きく分かれているということ。
人権は国民一人一人の権利についての話。
これに対して、統治は国の機関がどう言うものがあって、その権限はどのように行使されるのか?
そういう国のシステムの話。
以上のようなことをざっと分かりやすく解説していますので、もしお時間があれば読んでいただけると嬉しく思います。
さて、それでは、早速本題に入っていきましょう。
1)法の支配
法の支配。
小学校?でしたか?社会科や公民などで習っている有名な原理です。
よくTVのお堅い番組などでも耳にする言葉です。
法の支配とは、正確には、専断的な国家権力の支配を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理。
と定義されます。
まぁ簡単に言ってしまえば、国の権力は法で縛ってやり、そのことによってその国に住む国民の権利や自由を保護してやりましょう。
そういうことを目的とした原理です。
これとよく似た原理として<実質的法治主義という原理がありますが、かね法の支配と同じです。
日本の憲法は、各種憲法の規定を根拠に法の支配を採用していることとされています。
では、なぜこのような原理が求められるのでしょうか?
それは、権力という絶大な力が、個人を虐げて来た歴史があるからです。
代表的なのは王政ですね。
過去のヨーロッパの諸外国では、王様による国の統治が広く一般的でしたが、王様というのは絶大な権力を持っています。
世界史的にもこのような王政に対する市民の革命というのは何度となく繰り返されてきました。
その後、王政の不都合から、王様に権限を集約するのではなく、代わって国に権限を持たせ、これを国民が監視する体制が一般的になります。
それでも、国の権限は下手すると暴走する可能性がありますので、この絶大な権力を行使する場合には、国民の作った法律に従うようにしよう!!
そして、国民の利益に沿うように権力の暴走に歯止めをかけることによって国民が自由に暮らせる国にしよう。
このようにして登場したのが、法の支配という考え方です。
この原理は、憲法の中でももう基本過ぎて鼻血が出るほど常識ですので、もうこの機会に覚えちゃいましょう。
2)国民主権原理
法の支配に引き続き、この国民主権原理も鼻血が出るほど基本的な原理です。
これも、小学校?の社会で習ったと思います。
国民主権とは、その国の政治のあり方は、その国の国民が最終的に決定する権力を持っているという原理ですね。
つまり、例えば、日本国においては、日本人が、日本の政治のあり方を決定する権力をもっており、最終的に日本の政治は日本人が決定することになるということです。
この国民主権の分野で特に問題になるのが古い議論ですが、下記の2点です。
●【代表的論点】
- ◇国民主権における国民とはどのような国民か?
- ◇憲法上直接民主制の導入は可能か?
以上の2点です。
この論点は憲法を勉強した人ならば誰でも知っているし、さらっと答えることが出来るところですのでざっと書いておきます。
◇国民主権における国民とはどのような国民か?
実は、国民主権には2つの性質があります。
つまり、一つは権力性の契機、もう一つは正当性の契機というものです。(どちらをメインに考えるかは議論が見解によってそれぞれです。)
前者は、先に説明した国民主権の一般的な意味を指す契機です。
後者は、国家権力の権力行使が正当化される究極の根拠が国民にあるという契機です。
契機というのはよく分からない言葉ですが、イメージとしては、国民主権の性質といった意味内容ですので、勉強の初期段階ではざっくり把握して問題ありません。
国民主権の性質としてこのいずれの契機を重視すべきか?(←特にこれがメイン)
それによって、国民主権原理における『国民』がどう言う人となるか?
そういった議論です。
これは、国民主権原理の性質のどちらを強調するか?によって結論が変わってきます。
具体的に言うと、正当性の契機を強調すると、国民主権原理における国民とは、『日本国民全員』つまり、選挙権がない赤ちゃんも、国民主権における国民に当たるという話になります。
逆に、権力性の契機を強調すると、この国民は『選挙権を持っている人』つまり20歳以上の人を指します。
この見解では、20歳未満の選挙権を有しない国民は国民主権原理における国民ではないということになります。
現在では、通説的な見解は、憲法の条文に最も合致した形で、上記両方の見解をミックスしていいとこどりをした見解が通説です。
つまり、国民主権原理の正当性の契機をベースとして、権力性の契機もあることはあるけど、それは憲法に条文で明確に規定されている時に限るといった見解です。
例えば、普通国民主権という時の国民は、国民全員を指し、憲法95条のような国民の直接投票が求められているシーンでは、権力性の契機が発揮されるという感じです。
この見解では、国民主権原理における国民は、いつもは日本国民全員ですが、憲法に規定されている一定の場合には、この国民は20歳以上の選挙権を持っている人に限定されるます。
ここまで、すごく抽象的で分かりにくいと思いますが、この分かりにくい議論は何のためになされるのでしょうか?
次の項書いていきましょう。
◇憲法上直接民主制の導入は可能か?
何のために議論がなされるのかを議論の実益と言います。
ここまでの抽象的で複雑な議論の実益はどういう点にあるのでしょうか?
実は、ここまでの議論(特にいずれの契機を重視するか?)は、憲法上で規定されている以外に、『直接民主制』を採用することは国民主権から要請されているのかどうか?
という話につながり影響してきます。
ポイントは要請(憲法が制度を作ることを求めているか)というところです。
可否・許容(憲法上採用してもいいかどうか)ではありません。
有名なのは、『国民投票制度』を日本で採用することは要請されているか?という議論としてよくTVなどで話題になりました。
ここでまず、国民主権原理の権力性の契機(国民が最終的な決定をする権力を持っている)を強調してみましょう。
この場合、論理的には、国民が直接権力を行使することが国民主権から求められているということになりますね?
つまり、憲法で規定がある以外のシーンでも、国民が直接投票をして国の政治のあり方を決定していくことこそ国民主権原理に最も沿う国政のありかたということになります。
しかし、現在の通説は、あくまで正当性の契機をベースに、権力性の契機が登場する場面が憲法に規定のある時に限定されるという見解ですので、上記のような考え方は採用できません。
そして、正当性の契機がベースとなる以上、結局は、国民主権は原理は、国が行使する権限の正当性の根拠が国民にあるということだけ求めているということになりますので、国民主権原理は国民が積極的に国の政治のあり方に直接関わることまでは求めてないという事になります。
つまるところ、国民主権原理を根拠に、憲法で規定のある直接民主制以外の国民投票などの制度を積極的に採用することはできないよという結論になるのです。
非常に難解な話で難しいかもしれません。
正当性の契機を強調 ⇒ 直接民主制は要請されない
権力性の契機 ⇒ 直接民主制が要請される
ざっくりこのように覚えておけば問題ありません。
●【ポイント】《直接民主制と代表民主制》
上記まで頻繁に直接民主制という言葉が登場しました。
あまり政治に興味がない方の場合イメージしづらいかもしれないことを想定して軽くそれぞれの説明を加えておきたいと思います。
直接民主制とは、一つの政治テーマがあるとした場合、国民全員が、一人一人テーマについての投票(是か非か)を行い、その結果国の政治のあり方が決定されるような制度をいいます。
現在では、このような制度は、先進国では極めて限られたシーンでしか採用されていません。
古くは、まだ大きな国というものが存在していなかった時代、街の住民皆が広場に集まって、その街の政策を投票によって決定する際に採用されていた制度です。
日本を初め現代では、この直接民主制的な制度は限定的な場合にしか採用されておらず、主流は間接民主性です。
つまり、国民は議員を投票によって選出し、この議員さんが国の政策をしっかり議論して合理的かつ統一的な政策を決定し、国の行く末を決定する体制になっています。
上記では、国民主権原理から直接民主制が要請されるかどうかの話であり、可否・許容の話ではない点強調しましたが、これは可否・許容の議論であれば、問題なく直接民主制的制度は否定されるからです。
現在憲法は明らかに間接民主性(代表民主制)を採用していますから、これに抵触するため、認められません。
●【ポイント】《代表民主制(間接民主制の趣旨)》
趣旨・・・つまり、憲法は何の目的で、代表民主制(間接民主制)を採用しているのか?
その大きな理由を書いてみます。
これも基本中の基本です。
【最重要】◇代表者の議論を通して統一的な国家意思を形成する必要がある
⇒直接民主制は、個人の意見をそのまま投票に反映させるだけですので、いろんな角度でメリットデメリットを考慮し国家としての統一見解を示すことが困難です。
これでは、国の合理的な政策が決まらず、国家として体をなしません。
そのため、代表者(議員)を選出して、じっくり議論をすることによって様々な意見へ配慮し、妥当な統一的な国家意思を形成するため、憲法は代表民主制を採用しています。
【重要】◇直接民主制は多数決原理なので、ここからこぼれ落ちた少数派の人権にも配慮
⇒直接民主制は多数決で、多数派の意見を採用するという手段です。
その結果として、常に、少数派で意見を採用されなかった立場の人が存在することになります。
直接民主制はここへの配慮がしづらい傾向に有り、切り捨てることになりますから、これでは国家が分裂するおそれも否定できません。
そこで、代表者を選出し、議論によって、少数派への配慮をするため、憲法は代表民主制を採用しています。
もちろん、代表民主制ですべての少数派の人権へは配慮できませんので、その部分は司法権(裁判所)によって人権救済が図れる道を憲法は残しています。
【重要】◇直接民主制は、独裁制になってしまう危険性がある
⇒現在の選挙はマスコミ機関の報道によって、どのようにもなり得ます。
つまり、人気がある人ほど、当選しやすくなり、結果として政策は2の次とされてしまう危険性を多分に含んでいます。
直接民主制は、この影響を最も受けやすい手段です。
つまり、人気がある人が当選し、さらに人気が出てしまえば誰も逆らえなくなり、結果、実質的にその人の独裁制が始まってしまうという危険があるのです。
しかし、代表民主制の場合は、人気があっても、その他議員によって歯止めを効かすことのできる体制ですので、直接民主制ほど独裁の危険はありません。
僕の学習してきた今までの印象では、憲法はかなり独裁を嫌っっている印象です。
◇通常の国家では現実的に直接民主制は採用できない
⇒もともと直接民主制は、小規模の村等で採用されていた手段ですので、それとは比べ物にならない巨大な現代国家では、現実的に採用できないという側面もあります。
ただ、この趣旨は、ほとんど試験に出てきません。
重要なのは、ここまでの3つの趣旨で、この趣旨は行政書士試験・公務員試験初めどこでも死ぬほど出てきます。
特に1つ目の趣旨は、誰でも空で言えるようになるほど出てきますので、今のうちに覚えておきましょう。
3)9条《平和主義》
近年、TVなどでも9条の議論や集団的自衛権の議論として平和主義の話は話題になっていますね。
その平和主義の話です。
憲法は、全文で平和主義について宣言しており、同時に9条で戦争放棄を規定しています。
試験との関係で重要なのは、9条の解釈です。
ここは学説や政府見解が入り組んでいるところで難しくはないですが、面倒なところです。
圧倒的多数派は、憲法が9条で全面的に戦争放棄しているという結論を採用します。
ただ、この憲法が全面的に戦争放棄している根拠条文を、9条の1項とするのか?それとも1項と2項によるのか?対立があります。
通説は、1項と2項で全面放棄という結論を導く説です。
つまり、まず9条1項の『国際紛争を解決する手段として』の解釈を行います。
通説は、この手段というのを『放棄されている戦争の種類は侵略戦争であり自衛戦争ではない』と考えます。
次に、9条2項の『前項(1項)の目的』が1項のどういう目的を指すのか?という解釈を行うことになります。
通説は、この目的は『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求』する目的であると考えるのです。
つまり、国際平和を誠実に希求するのであれば、先制攻撃されたとしても、自衛のためにこちらからやり返すことは好ましくないということになりますよね?
そこで、1項で自衛戦争を否定していないとしたけれども、2項によってその自衛戦争も否定するという結論になるのです。
これが、1項2項全面戦争放棄説です。
『1項・2項全面戦争放棄説が通説だ』と覚えておきましょう。
ここで、ややこしいのは、学説ではなく政府見解も関わってくるところです。
全面的に戦争放棄の結論で学説は一致の方向ですが、ここで問題になってくるのが、自衛隊の存在です。
上記の戦争放棄についての議論とは別に、9条2項の『戦力』を何と考えるか?という議論がありこれをどう解釈するかが自衛隊の存在に大きく関わります。
これが、絶妙に絡み合うので少しややこしくなってくるのです。
学説は、『戦力』とは軍隊と考え、自衛隊は軍隊に当たりますから憲法に反するきらいがあると考える傾向にあります。
この見解は、軍隊と警察力と2つの力があると考えます。
これに対して政府見解は、『戦力』は軍隊で、これに当たらない力として自衛のための必要最小限度の実力(実力)・警察力と2つの力があると考えます。
そして、自衛隊は2番目の自衛のための必要最小限度の実力に当たると解釈し、自衛隊の存在は憲法上も何の問題もないと解釈します。
これは自衛隊が、世界的にみれば明らかに軍隊である点を考えれば、かなり苦しい解釈です。
しかし、現状・・・憲法改正は手続きが厳格ですので困難であるため、安全保障の見地から、国を守るためにも緊急上、苦渋の解釈なのだと思います。
ちなみに、政府見解も1項・2項全面戦争放棄説を採用し、同時に『戦力』の解釈を上記のような解釈をすることによって自衛隊の存在を肯定します。
このような一見矛盾する見解を採用するのが政府見解ですので、注意しましょう。
問題文を読みその場で論理的に回答を導こうとすると間違いますので、ここは覚えておかなければなりません。
通常、資格試験の法律科目の出題は判例・学説・条文から出題されることが多いですが、9条の分野では、政治的な議論を無視できませんから、政府見解がよく問われますので珍しい分野です。
4)人権享有主体性
ここも非常に重要です。
人権享有主体性(じんけんきょうゆうしゅたいせい)ですが、またまたよく分からない言葉が出てきました。
一言で言うと、この人権享有主体性というのは、『憲法上の人権が保障される資格』とイメージすると分かりやすいです。
では、何故こんなことが問題になるのでしょうか?
それは、憲法3章の冒頭のタイトルが『国民の』となっているからです。
国民という事は、日本人は含まれることは読んで字のごとくですね。
では、日本に住んでいる外国人は?
人間ではないけれど、法律上権利を行使できることを認められた法人(会社等)は?
こういう人ははっきりと『国民の』とは言えない面もありますから、このような人にも憲法上の人権を保障できるのか?ということで議論があるのです。
例えば、外国人の例で考えてみましょう。
仮に、外国人には憲法の保証する人権が保証されないという事になればどうなるでしょうか?
憲法はいろいろな人権を保証しているところ、例えば、信教の自由等が外国人に保証されないとなると、国はその国家権力を行使して外国人の宗教活動を一切認めないとすることも出来るという結論になります。
でもよく考えてみると、これ異常事態ですよね?
外国人であるとは言え、その人の自由をガンガン制限しても良いなんていうのは現代の考え方にマッチしません。
こういうところから、判例は、原則外国人にも人権は保障されるという結論をとっています。
ちなみに、判例は法人にもできる限り人権を保障していこうという見解です。
つまり、まずはいろいろな人に人権を保証し、その後、適宜人権の権利の性質を考慮に入れ、保障される人権と保証されない人権をその都度考えていこうという立場をとっています。
これが、人権享有主体性の大まかな流れです。
さらに詳しい内容は、下記に別記事としてまとめてありますので、是非お読みいただければ幸いです。
↓ ↓ ↓ ↓
『』
この人権享有主体性の話は、憲法の各種人権の話に入る前の前提となる話ですので、もう常識として学んでおくべき基本知識です。
5)基本的人権の限界(制限)
『限界』というと、わかりにくいですが・・・ここの話は、端的に言うと、基本的人権は『制限』できるのか?という話です。
憲法に規定される人権は様々なものがありますが、どれも非常に重要な権利です。
国民が自由に生活するためには、どれも欠くことのできない本当に大切な権利ばかりです。
しかし、例えば、ある国民が、人権の行使を認めた場合、これと対局に位置する別の国民の人権を制限してしまうことがしばしばあります。
また、社会全体の利益のためになされた国のある政策が、国民全体としては利益になるものの、一部少数派の人権を制限してしまう場合もしばしばあります。
このように、ある国民の人権というのは大切なのにもかかわらず、こうやって制限することは許容できるのか?
できるとするならば、憲法の何条のどういう原理を根拠に制限できるのか?
これが、基本的人権の限界という分野の大まかな議論の流れです。
結論としては、人権も最大限保証されるものの、憲法の条文に出てくる『公共の福祉』(12条・13条・22条1項・29条2項)によって人権は最小限度の制約に服することになります。
この『公共の福祉』というのが何か?については見解がいろいろと分かれていますが、『人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理』と考える見解が通説とされています。
この見解によると、上記公共の福祉の内容が非常に抽象的で不明確ですから、結局、人権は制限できるものの、どの程度までなら制限をかけることが許されるのか?はっきりしません。
そこで、ここからさらに進んで、もっと具体化するため、いわゆる違憲審査基準をどのように設定するかという話に発展します。
違憲審査基準というのは、簡単にいうと、人権を制限しましたが、その制限は許されるのかを、裁判所が第三者の立場で判断するためのモノサシのようなものです。
例えば、『ある女性が結婚してもいい男性』がどのような男性であるか?というテーマがあったとしましょう。
この男性がどのような人であるかをその女性以外の人が判断しようとすると、『条件』を設定する必要があります。
この条件は例えば、優しい人であったり、年収1000万円であったりといろいろな条件が挙がろうかと思います。
こういった条件のようなものが上記に言う、違憲審査基準です。
そして、基本的人権が何らかの制限を受けた場合、それが許されるかどうかを、この違憲審査基準をもとに判断していくことになります。
試験との関係では、基本的人権の限界の分野において、判例がどのような基準を用いて判断しているのか?そして、どのような事情を考慮して、どういった結論を導いたか?ここが非常に大切になります。
ところで、違憲審査基準にはどのようなものがあるのでしょうか?
実は、この審査基準は各種人権によって、判例によって、さらに学説によって、複数存在しますが、最も基本的な違憲審査基準は、目的と手段を総合的に検討して人権の制約は許されるかどうか?を判断することが多いです。
つまり、人権を制約(規制)した目的が正当(重要)なのか?
そして、正当もしくは重要である場合、その目的を達成するために採用された手段が、その目的を達成する手段として合理性(効果的か否か)があるのかどうか?
これを、事例に則して事情を考慮し総合的に検討します。
これが最も基本的な基準で、判例を読むときも、目的と手段で分けてどのように検討しているのかを常に頭に置きながら読むとスッキリ理解できることが多いです。(もちろん、これはあくまで基本ですのですべての判例をスッキリ目的と手段で割り切ることはできませんが・・・。)
勉強を始めてすぐの頃は、ひとまず、人権は制約でき、その程度を違憲審査基準で判断する。
さらに、違憲審査基準は目的と手段で検討することが多く、これが最も基本形である点覚えておくと、先の勉強がスムーズに進みます。
憲法の判例はややこしく、法則性もないので暗記しにくい傾向にあるものの、上記の点を意識すると少しは楽になります。
●【ポイント】《いろいろな違憲審査基準たち》
厳格基準(制限が許されるかどうかを厳しく判断)
- 厳格な合理性の基準
- LRAの基準
- 明白かつ現在の危険の基準
- 厳格審査基準
etc///
緩やかな基準(制限が許されるかどうかをラフに判断)
- 明白性の原則
- 合理的関連性の基準
- 目的・効果基準
etc///
中間的な基準(万能型の基準)
- 比較衡量
⇒Aという利益とBという利益をバランスよく比較して、どっちの利益が重要かを判断する基準
以上のような基準が基本ですが、判例の基準を含めれば他にもたくさん存在しますので、その都度確認しましょう。
ただ、判例はかなり緩やかな基準を用いて判断する傾向にありますので、覚えておくと楽です。
6)包括的人権《幸福追求権》
いわゆる13条の話です。
憲法では、3章の国民の基本的人権を列挙した条文たちが存在します。
ところが、憲法自体もうずいぶん前に制定された条文ですから、現代社会が発達するにつれて、この3章に列挙された典型的な人権以外の『憲法で保障すべきと言えるおような重要な国民の利益』が登場してきました。
つまり、憲法には明確に人権として規定されていないけれども、憲法の人権と同列に保障しなければ国民の自由を守ることができないような利益が登場してきたということです。
例えば、身近でよく耳にする権利として挙げることができるのは、『プライバシー権』でしょう。
プライバシー権と言われれば、おそらく誰もがどのような権利かを想像できると思います。
他にも、タレント等がよく言う『肖像権』や、マンションの日当たりが遮られた時に言われる『日照権』など。
これらは、いわゆる新しい人権と言われる種類の利益です。
このような重要な利益は、憲法のどの条文を根拠に、どのような基準で保障するのか?というのがここのテーマです。
既に述べてしまいましたが、これらの利益は、憲法13条によって保障されるかどうかが議論になっています。
そして、その利益の重要度によって、憲法上の権利として保障されるかどうかが判断されるのですが、それを判断する基準もまた議論になっています。
現在通説的な見解は、『人格的生存に不可欠』かどうかを基準に13条で保障されるべき利益かどうかを判断するとする見解が通説です。
抽象的でよく分からない基準ですが、まぁ、ざっくりと人が尊厳をもって生きていくには、その利益を権利として保障する必要性が高いかどうか?というイメージで検討していきます。
判例は、事案に則して、いろいろとその都度判断しているようです。
意外ですが、今では当然のように主張されているプライバシー権も、判例は明確に権利として認めると判断したものはありません。(これ試験に頻出です)
もっとも、『プライバシー』という言葉を用いている判例は複数存在します。
新しい人権は、論文試験が課される試験では、これに該当するかどうかを認定する作業が非常に重要になりますが、択一式オンリーの試験の場合は、判例が13条を根拠に憲法上の権利(人権)としてどのような自由権を認めたか?
これをしっかり押さえることで十分です。
指紋押捺を強制されない自由や個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由は、判例が13条により認めた権利として有名です。
逆に、認められていないものとして、自己決定権(個人が自由に決定出来る権利)や前科を公表されない自由等は、明確に憲法上の権利としては認めていません。(注意:法律上の利益と憲法上の利益は区別しましょう)
7)法の下の平等
憲法14条の話です。
法の下の平等。
これも小学校や中学校で一度は耳にしたことのある用語だと思います。
つまり、日本に住んでいる国民は、個々人等しく平等であり、不当に差別されてはいけないということ。
現代の先進国では当たり前の考え方ですが、歴史的には、平等など無いに等しい時代の方が長いんじゃないかと言える程。
差別の歴史は非常に根深いものがありますが、それではいけないと、憲法は14条で平等についての規定をしています。
他にも、44条でも選挙についての平等を定めています。
●【小目次】
- ◇『法の下』の法の意味
- ◇『平等』の意味
- ◇アファーマティブアクションって?
- ◇議員定数不均衡の話
◇『法の下』の法の意味
14条では『すべての国民は法の下に平等であつて・・・』との文言を用いていますが、この『法の下』の法と『平等』には、解釈について議論があります。
つまり、法の下の法とは何か?平等とは何か?ということです。
とは言っても、現在ほぼ通説は決まっており、下記の解釈を覚えておけば、試験との関係ではそう困ることはありません。
『法の下』の法とは法適用の平等だけでなく、法内容の平等まで14条の平等原則に従って規定される必要がある。
つまり、14条に言う法の下の法は、単に存在する法律を平等に差別なく国民に適用していくことはもちろん、その法律の内容、つまり法律として記述されている内容自体も平等の考え方に従って作られていなければならないということです。
なぜならば、例えば、ある法律があったとしましょう。
この法律を国民個々人に平等に適用したとしても、その適用される法律の内容自体が不平等な内容であるならば、これをいくら平等に適用しても本当の意味で、国民個々人の平等を成し遂げることはできないからです。
不平等な法律をいくら平等に適用しようとも、本当の意味での平等は実現できないということですね。
◇『平等』の意味
次は平等の意味について。
まず、平等の意味を解き明かす前に、用語を覚えておきましょう。
絶対的平等と相対的平等について。
絶対的平等とは、絶対に人と人の間で差異を認めないということです。
つまり、少しでも個人と個人の間で差のある取り扱いをすれば全て14条に反するという考え方です。
これに対して、相対的平等とは、合理的な理由があれば、ある程度不当では無い『区別』は許されると考えます。
上記のうち、14条に言う『平等』が上記いずれの平等を指すのか?通説的見解では、『相対的平等』を指すと考えられています。
というのも、憲法は13条で個人の尊厳は最大限に尊重される旨を規定しています。
これを素直に解釈すれば、憲法は国民一人一人は全て個人として個性があり、それを許容することを最大限に尊重していると考えることができます。(こういう個々人の個性を許容する考え方を価値相対主義といいます。)
この点、絶対的平等の考え方は、一切国民間で差異を認めない考え方であり、これは明らかに、憲法の上記考え方と矛盾します。
そこで、国民個々人に合理的な区別を許容する相対的平等が妥当であると考えられています。
つまり、14条に言う『平等』とは、国民相互間に全く差異を認めない平等ではなく、ある程度合理的な理由のある場合であれば、区別をすることも許される平等ということになります。
まぁ、現実的にも、全く差異を許容しない絶対的平等は採用できませんから、14条に言う平等は相対的平等であるという見解が通説となり、試験でもほぼ相対的平等中心に問われます。
ところで、ここにいう平等を相対的平等と考える場合、合理的区別であれば許されるという結論になるわけですが、この『合理的』かどうかはどのように判断するのでしょうか?
勘のよい方は気づいておられると思いますが、ここでも基本的人権の限界で出てきた『違憲審査基準』が登場します。
この合理的がどの程度なのかを判断するのに基準が必要ですから、ここでも平等権独自の違憲審査基準の分類が議論されています。
ここは、勉強が進んでから、ガッツリ確認しましょう。
◇アファーマティブアクションって?
アメリカで唱えられた原理です。
日本語でいうと、積極的差別解消措置といいます。
つまり、進んで国家が介入し(積極的)差別を解消するための措置をいいます。
これは具体例で理解すると非常に分かりやすいです。
例えば、日本では昔女性の社会的地位は、男性に比べて非常に低かったという歴史が有ります。
女性への歴史的差別は、昔は現代とは比べ物にならない程度にひどいものでした。
一例として、昔の女性の進学率は、男性に比べて圧倒的に低く、女性が学校で学ぶという機会は少ないという現実がありましたね。
これを解消しようと登場したのがいわゆる『女子校』です。
これがいわゆる積極的差別解消措置です。
ところで、この積極的差別解消措置ですが、上記例で考えると・・女子校は、女性しか入学できないのですから、男性が『差別』を受けているということになりますよね?
ここで問題になるのが、このような男性に対する差別は許容されるのか?という点です。
結論としては、余程不当な措置でない限り、14条には反しないという方向で検討することになります。
積極的差別解消措置が、14条に反すると判断されることはほぼありません。
一応、このような措置は不平等なものではなるものの、本質的な平等を実現するためには必要な措置であるため、合理的な区別として許される傾向にあります。
こういう考え方は、問題を解く時に役に立ちますので、是非覚えておきましょう。
◇議員定数不均衡の話
近年、衆議院選挙の議員定数が地域によって不均衡で、国民一人一人の投票価値(選挙の際の一票の重さ・価値)に不平等が生じている点について相次いで、違憲判決が出ています。
この議員定数不均衡の問題は、14条平等権の話の中でかなり難解なテーマです。
というのも、ここの話は14条の話だけではとどまらず、行政法の知識や憲法の統治の知識もなければスッキリ分からない難しい分野だからです。
取り敢えず、勉強を始めてすぐの頃は、判例が、投票価値の平等は14条で保障されている旨判断したということ程度は覚えておきましょう。
あとは、ここの分野は、特に三権分立を意識すること。
ここは国会VS裁判所の衝突の視点が不可欠です。(ここが憲法の統治機構の思考)
というのも、議員定数不均衡の問題の本質は、国会の作った議員定数配分規定によって、国民の投票価値に不平等が生じている点にあります。
つまり、裁判所が国会のやったことに口を挟む話なのです。
三権分立の考え方は、司法権(裁判所)・立法権(国会)・行政権(政府)は互いに監視し合うとともに、口を挟むことは必要最小限にとどめることが求められます。
だから判断が難しいのです。
このような配慮があって、この分野で登場する判例は、国会に最大限の配慮を払った判断をしています。
逆にこういう特徴を意識せず判例を読めば『なんでこんなわまりくどい判断をしているのだ?』とチンプンカンプンになってしまいます。
ですので、判例をスッキリ理解するためにも、上記のような視点は意識しましょう、ここコツです。
勉強を開始して間もない場合でも、衆議院議員議員定数不均衡の判例で、昭和51年と昭和60年の判例は覚えておきましょう。
数ある判例の中でも、この2つが違憲判断(法令違憲)をした珍しい判例です。
法令違憲とは、判例の数ある違憲判断方法の内の一つですが、違憲ではないかと問題になった法律自体を意見であると判断するものです。
ちょっと難しいので、勉強を初めてすぐの頃は、最も突っ込んだ最強の違憲判断と覚えておきましょう。
戦後9例程しかない、非常に珍しい判断です。
この9個の判例は、憲法を勉強した人であれば、主要な判旨(判例の判断内容を書いた長い文章)を読めばどの判例か判断できる程、読み込む判例ですので、最重要判例です。
ここも今のうちに覚えておきましょう。
●【ポイント】《戦後の法令違憲》
- 薬事法距離制限規定
- 51年衆議院議員定数配分規定
- 60年衆議院議員定数配分規定
- 森林法共有林分割制限規定
- 郵便法免責規定
- 在外邦人の選挙権制限
- 非嫡出子の国籍取得制限
- 非嫡出子の法定相続分規定
8)内心の自由
やっと内心の自由までやってきました。
内心の自由は、読んで字のごとく、心の中の自由ですね。
内心の自由には大きく下記の目次どおり3種類があります。
●【小目次】
- ◇思想・良心の自由
- ◇信教の自由
- ◇学問の自由
◇思想・良心の自由
思想・良心、つまり、その人が頭の中で考えている考えのことです。
憲法では、思想・良心の自由として、頭の中で考えるだけならどんな内容の思想も絶対的に守られます。
つまり、その人が頭の中で考えているだけなら、どんなに残虐なことも、どんなに不純なことも、どんなに不道徳なことも、絶対的に守られるということ。
そして、この頭の中の思想は、頭で考えているだけなら、絶対に国家によって弾圧されないということを、思想・良心の自由によって保障しています。
よく例えられるのは、『踏み絵』の例です。
昔キリスト教を弾圧する第一歩として、その人がキリスト教徒であると特定するためになされたもので、歴史的にも思想弾圧の代表例としてよく登場します。
こういうのは、やってはいけませんよと憲法は思想・良心の自由を保障することによって、宣言しています。
試験との関係で、勉強を初めて間もない時点も覚えておくべきことは、『思想・良心の自由は内心にとどまる限り絶対的に保障されるということ』です。
逆に言うと、思想・良心が頭の中だけで考えられることを卒業して、外部に発信されれば、別の問題が生じることになります。
この部分は、後ほど『表現の自由』の部分で勉強することになります。
◇信教の自由
信教の自由も読んで字のごとく、宗教的思想を持つことの自由です。
この信教の自由も、思想・良心の自由の一部で、『その宗教的思想が内心(頭の中)にとどまる限り絶対的に守られ』ます。
先に書いた踏み絵の例は、まさにこの信教の自由に関して問題となるものです。
この信教の自由は、少しややこしいところがあるので少し丁寧に説明します。
信教の自由の分野で勉強することには、下記の2点があります。
信教の自由の2面性
- 1)信教の自由そのもの
- 2)政教分離の原則
1)信教の自由そのもの
これは冒頭で書いた意味と同じで、宗教的な思想は誰もが自由にもってよく、それは憲法で保障されるよという話です。
ここで重要なのは、思想・良心の自由と同様、内心にとどまる限り絶対的に守られるということ。(内心面)
そして、『外部的な行為の側面』として、1:宗教的行為の自由と2:宗教的結社の自由が保障されるということです。
1:は読んで字のごとく、宗教活動を行うことの自由です。
2:宗教的思想の布教活動をしようと思うと、組織化すると効率的です。
ですので、宗教的な組織を作る自由として宗教的結社の自由が保障されています。
これら1:と2:は頭の中でとどまらず、外部に向かって表現される行為です。
これらについては、内心にとどまる場合とは違って、絶対的に守られているわけではありません。
なぜでしょうか?
外部に思想が発信されるということは、発信した人以外の人との間で、何らかの利益衝突をきたすおそれがあるからです。
例えば、お寺の住職が、お経をあげることによって病気を治せると信じていたとしましょう。
このお経をあげるという行為は、宗教的行為ですが、例えば、重病人をお経で直そうとしたけれども、結局その人は治らず亡くなってしまったというような場合を想像してみてください。
このような場合、いくら憲法で信教の自由の一部として宗教的行為の自由が守られているからといって、無罪とするのはなんだか一般的な感覚として納得できない人が多いと思います。
そのため、信教の自由も、無制限の自由として守られるわけではなくて、一定の場合は少し制限しなければならない場合もあるということになります。
ちなみに、上記のお坊さんのお経の例ですが、よく似た判例があり、実際に人が亡くなってしまいました。
憲法には、こんなデリケートな問題がよく登場するので、ある人の利益とほかの人の利益を調整する視点が本当に大切です。
2)政教分離の原則
この政教分離というのは、信教の自由のもうひとつの側面です。
憲法では政教分離の原則は、20条1項後段、20条3項、89条前段で規定されています。
何条で保障されているかは、覚えることになります。
この政教分離の原則は、よくニュースでも、毎年、内閣総理大臣の靖国神社の参拝の問題をめぐって議論になっています。
つまり、政教分離原則というのは、国と宗教が、結びついてはいけないという原則です。
なぜ、このように憲法は国が宗教と結びついてはいけないと規定しているかというと、多くは歴史的な経緯に求めることができます。
歴史上、特定の宗教と国が結びついたとき、必ず苛烈な人権侵害がなされたという経緯があります。
つまりは、ある宗教だけと国が結びつくと、次に起こる出来事は、その宗教以外を国が権力を背景に弾圧し始めます。
この時、確かに、国側の多数派宗教の自由は守られていますが、国側でない少数宗教の自由は、極度に侵害されることになります。
だからこそ、憲法はこのような少数派の自由をもちゃんと保護しましょうねということで、政教分離の原則を規定しているのです。
もう一歩!
政教分離の原則は、国と宗教がくっついてはいけないという原則でした。
でも、よ~く考えてもらうと分かる通り、実際の社会では、国と宗教がある程度の結びつきを持っている例は無数に存在します。
例えば、宗教的な思想を背景にした私立大学などは代表例です。
私立大学にも国の助成金というものが給付されている場合がありますので、その意味でも国と宗教はある程度結びついていると言えなくもありません。
このように、実際社会では、ある程度国と宗教は結びついているのが現実です。
では、これについて判例はどう考えているのでしょうか?
行政書士試験でも、公務員試験でも頻出なのですが、判例は、『完全完璧に分離してなくてもよいよ』という立場をとっており、その上で、ある一定以上の結びつきになれば、それはもう政教分離の原則違反でダメだよと考えています。
そして、このある一定以上かどうかを判断するモノサシとして、目的・効果基準という基準を使っています。
目的効果基準とは、『行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉になる場合』はもう政教分離の原則違反となると判断しています。
勉強を初めてすぐの段階では、少し難しいかもしれませんが、判例は完全に分離までは求めていないということについてはこの機会に覚えてしまいましょう。